≪冬の宗谷本線の旅≫
Fe@NJ です。こんにちは!
今回は、厳冬期だからこそ行きたい「宗谷本線で稚内」の紀行をご紹介いたします。
JR北海道において、先日、滝川~留萌(るもい)間が廃止となりました。
今後、「単独維持困難」とされた路線・区間については、更なる廃止・合理化等が検討され、その中には、宗谷本線の名寄(なよろ)~稚内間も含まれるそうです。本区間の冬期の厳しい気候を考えると、個人的には、ライフライン確保の観点より、鉄路を残すべきものと思料しますが、そのためには、経営的な課題が少なくないようです。
(1)特急「スーパー宗谷」
日本の最北端駅、稚内に向かう鉄道の旅は格別です。
札幌始発で、終着の稚内まで、函館本線・宗谷本線経由、特急「スーパー宗谷」で、約400km・約5時間の旅です。北旭川以北は非電化区間のため、「スーパー宗谷」はディーゼルカー(261系 気動車)です。札幌駅のホームに、ディーゼルエンジンの重厚な音が響いています。
編成の端の車輌ですが、多客期の増結(車輌数を増やすこと)時、基本編成と増結編成の行き来が出来るように、二階の運転席の下、一階部分は、幌と貫通扉がある構造になっています。まるで老舗の理髪店(?)の入口扉のように見えるのがその貫通扉です。ここからの前方展望は素晴らしいです。
画像①札幌駅で発車時刻を待つ「スーパー宗谷」
画像②「貫通扉」からの前方展望
荒涼とした真冬の大地を「スーパー宗谷」は駆け抜けます。まるで異国の景色です。
画像③天塩(てしお)川
職員の方のご好意により、終着の稚内駅にて、「スーパー宗谷」のコックピットを見学させていただきました。
画像④二階構造の運転席は高いです!
画像⑤運転士席・・・意外とシンプルです!
この先、レールはありません。
画像⑥稚内駅構内にて・・・日本の鉄路の最北端、後方は後述の「稚内港北防波堤ドーム」
(2)稚内観光
太平洋戦争が終わるまで、稚内と、日本の領土であったサハリン{日本名樺太(からふと)}のコルサコフ{同 大泊(おおどまり)}との間の宗谷海峡は、稚泊(ちはく)連絡船で結ばれていました。当時、稚内駅とは別に、稚内桟橋駅があり、その遺構的なものとして、「稚内港北防波堤ドーム」があります。これは土木学会選奨土木遺産にも指定されています。昔、乗船客はこのドームの下を通り、連絡船に向かいました。防波堤としての機能は「現役」で、稚内港を風波から守っています。
画像➆稚内港北防波堤ドーム
宗谷岬、他、稚内の観光に、コンパクトカーを予約していたところ、トヨタカローラの四輪駆動車でした。メッチャ寒いです。ハイシーズン用のスキーウェアを着ての観光です。
ポケモンGOは、「ポケスポット」「ジム」のいずれもあるとの情報を得ています。(本紀行は、ポケモンGOのリリース前でした。)
画像⑧宗谷岬、日本最北端の地
「流氷館」内に、本物の流氷が展示されています。館内ですが、外よりは温度が高く、マイナス10℃くらいです。
画像⑨流氷館
先の大戦において、宗谷海峡や日本海で戦没されたわが国の軍人・民間人を慰霊するための碑が建立されています。アメリカ潜水艦の戦死乗組員についても、弔われています。歴史を紐解くと、下記の記録がありました。
アメリカの潜水艦たちは、太平洋から、宗谷海峡または津軽海峡を西航し、日本海への侵入を図りました。1943年9月、その中の1隻、ワフー号(USS Wahoo, SS-238、水上排水量1,526トン)は、宗谷海峡経由、福岡県沖ノ島付近まで南下。魚雷攻撃により、関釜連絡船の崑崙(こんろん)丸、他、数隻が犠牲となり、乗組員・乗客等、多数の命が失われました。翌10月、ワフー号は、帰路、宗谷海峡で日本軍に捕捉され、陸上要塞、陸・海軍の航空機、艦艇の猛攻により、再び浮上することなく、撃沈となりました。
画像⑩慰霊碑
太平洋戦争の開始日、12月8日を過ぎたところですが、この北の大地にまで戦禍が及んでいた事実に対し、平和の大切さを再認識させられました。
それでは、次回もお楽しみに!